6.ザ・ステーション・ナイトクラブ火災
【動画】
厳密に言えば写真じゃなくて、火事が始まって出口で人が死んでいくステーション・ナイトクラブ火災の動画。
火災報知器が鳴ったところから先はとても見ていられない。嘘みたいな話だが、あの動画を撮った男はセーフティー・ドキュメンタリーを撮影する為に偶然あの場に居合わせたという。
現在ならあの動画はHD画質で、複数の人が携帯電話で録画してただろう。
実に痛ましいよ。引用元:What is the scariest photo that exists?| reddit.com)
2003年2月20日、ロードアイランド州ウェスト・ウォリックのザ・ステーション・ナイトクラブで火災が発生。死者100名、負傷者230名を出す大惨事となった。
火災発生時はバンド『グレイト・ホワイト』のライブ中であり、クラブ内はキャパシティを越えた観客ですし詰め状態となっていた。 ライブ演出で使われた火花が天井や壁の防音材(燃えやすい素材が使用されていた)に引火した事が出火原因となり、火はあっと言う間に燃え広がった。
クラブには4箇所の出口が存在したが、観客の大半は入ってきた正面出口へ殺到。狭い出口と廊下が人で詰まり、脱出できない悲惨な状態となった。
この夜クラブに居た462人中、無事に脱出できたのは僅か132名であった。
当時『グレイト・ホワイト』のフロントマンだったジャック・ラッセルは、火災の悲劇から10年の節目にあたる2013年に、収益金を全額遺族に寄付する名目で記念チャリティコンサートを開いたが、The Station Fire Memorial Foundation(ステーション火災記念財団)は一切の金銭の受け取りを拒否した(被害者に対する謝罪が十分に為されていない事が原因とみられる)。
ザ・ステーション・ナイトクラブのオーナーと、点火したバンドマネージャーは過失致死罪に問われ、有罪判決を受けた。
参考:
15 YEARS AGO: GREAT WHITE CONCERT FIRE KIL… | ultimateclassicrock.com
The Station nightclub fire? |Wikipedia.org
Crowd crush: What happens in a human stampede | news.com.au
7.ウラジミール・コマロフ
宇宙飛行士の遺体写真。
(引用元:What is the scariest photo that exists?| reddit.com)
ウラジミール・コマロフはソビエト連邦の宇宙飛行士。
1967年4月23日に打ち上げられたソユーズ1号に搭乗したが、宇宙空間でトラブルが発生。
大気圏再突入するも帰還カプセルのパラシュートが開かずに地面に激突炎上。焼けた機体から炭化した遺体が発見された。
参考:
ウラジミール・コマロフ |wikipedia.org
The remains of the astronaut Vladimir… | thevintagenews.com
8.チェチェンの子供たち
(出典:northcaucasusland.wordpress.com)
チェチェン紛争時、シェルショック状態に陥っている子供たち。
(引用元:What is the scariest photo that exists?| reddit.com)
9.ナジノ島の人肉食
1920年のロシア大飢饉時に撮影されたこの写真にはいつも心底ゾッとさせられる。
追記:有益なコメントを残してくれた人達からもらった正しい情報で訂正。
要約版:これはスターリンが数百万人の国民を餓死に追いやった時のものではなく、6000人の人々を島(後に死の島、もしくは人食い島として知られるようになる)へ送った時のものだ─食事は小麦粉のみ、僅かな道具と服、小屋だけを与え、少なくとも4000人を餓死させるだけの為に。
(引用元:What is the scariest photo that exists?| reddit.com)
ソビエト連邦が1933年5月に行った6000人の集団国外追放。
大半が政治犯と軽犯罪者で構成された棄民は、西シベリア─北トムスクから800キロ─に位置する小さな孤島に『特別な開拓地』を作る為として、強制的に送られた。食糧は小麦粉のみ、あとは僅かな道具と衣服、小屋だけを与えられた棄民は、逃亡を謀れば武装兵士によって殺害された。
この島の状況は病気、権力の乱用、暴力、そして人肉食の蔓延へと繋がった。
13週間も経たずにナジノ島の棄民4000人が死亡もしくは行方不明となり、生存者の大半も健康を損なっていた。
このナジノ・アフェアは1988年までほとんど一般に知られる事はなかった。(引用元:Nazino affair | wikipedia.org)
亡くなった者の人肉ばかりか、進んで病人・怪我人を狩る者も居て、おまけにその肉を頻繁に生で食べていたというのだから、病気の蔓延は当然の結果であったとも言える。
スターリンの冷酷さ、残忍さがよくわかる事件のひとつ。